おうちのぶろぐ 汚部屋脱出女の快適生活

36歳で汚部屋脱出。捨てるお片づけ、お掃除、いつでも人を呼べる心地いいお部屋作り。心と思考のお片づけもやってます。

カテゴリ: 非二元・ノンデュアリティー

やーやーやー。 12月に入ってもうこんなに日にちがたっていてびっくり! 先月の末に、クリスマスの雰囲気出すために、 アドベントキャンドルなるものを作ってきました~! 私がこんなモノづくりをするなんていうのもキャラじゃないようにも思えるんですが、 キ ...

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やーやーやー。


12月に入ってもうこんなに日にちがたっていてびっくり!


先月の末に、クリスマスの雰囲気出すために、

アドベントキャンドルなるものを作ってきました~!





私がこんなモノづくりをするなんていうのもキャラじゃないようにも思えるんですが、

キャラってなんでしょうね~。笑



人間って、そうやって、物ごころついたころから、

いろ~~んなイメージを自分と思ってる入れ物にペタペタ貼ってるんです。

私ってこうだから~~。

私ってこうなのよね~~。

私はこういうもの~~~。



そうやって色んなラベルを貼って、「私」という何かを作ってきて、

その「私」というものが必死に傷つかないように守ったり、良くしようって生きてるわけなんだけど、


実はそんな「私」っていうのはよくよく見てみると、どこにも居なくて、


最初からそんな「私」なんていなかった。。。


「わたし」というものをただの概念で作りあげていただけ

というのが分かってきます。


私たちがいつも使ってる「私」って、何のことを指してると思いますか??

身体???

思考???

感覚???

どれが自分だと思いますか???



はたまた全部ひっくるめて自分だと思いますか???


こうやって見てみると面白いんです。

私たちみんな、

体は自分の体だと思っているし、

感覚も自分のモノだと思っている。

思考だって、「私」の思考って。

でも、

身体=私

でもないし、

感覚=私

でもないし、

思考=私

でもない。


この3つは常に、

私の思考

私の感覚

私の体というように所有物として扱われている。


じゃあ、じっさいにそれを所有してる「私」ってどこにいるの?????って見てみると、

なんと、どこにも見つからない!笑


どこにも見つからないんだけど、

もう小さなころから、この体、感覚、思考が自分のモノと認識して生きてきたから、

それが定着しすぎて、私以外の何かとして考える余地がないんですね。

人間社会そのものがみんなそうやって生きているので、疑問に思うことすらもない。


ちっちゃい子どもって、名前を呼んでも、自分のこと呼ばれてるって気付いてない時があるでしょ?

「~~ちゃん!あなたのこと呼んでるのよ~!」って言っても、

ん??どれ??あ!!!!これ?これが私ってこと??みたいな。笑



だから、みんな元々は、この体を自分の体なんて思って生きて無かったし、

思考が湧きあがってきても、それが自分の思考だなんて思って無かった。

過去と未来をつなぐ思考なんてものも無かったし、時間という概念もなかった。

原因と結果の中に住んでなかったから、

何か起きても、次の瞬間にはケロっとしてた。


大きくなってくにつれ、

これはこうなのよ、

こうやったらこうなるのよ、

こうやったからこうなったのよー、

何時までに~~しようね~

これは~~って言う名前

ぜ~~~~~~~んぶ、教えられてきたんですね。


自分で何か直接経験しても、

それに説明が加えられて、

「あ~、それは悲しかったわね~~。」

なんて教えてもらったり。

「おおおお!これが悲しいというものなのか!」

と子ども心に思うかどうかは分からないけど、

それは元々は「悲しい」という感情でもなんでもなく、単なる何かの感覚だったわけで。

そうやって、

ただあった感覚、

ただあった思考、

をどんどん自分のモノとして、他のモノから分離させていって「私」ができあがっていったんですね。



だから、「私」って、実際の実体はないんだけど、

人とかかわって生きてく中での便宜上付けられた「後付け」の概念なんですね。




だから、もし、何か思考が湧いてきたり、

感覚が湧いてきたり、

痛みを感じたりしたら、

ただただ、それがあるんだな~~~ってゆる~~っと見てあげてみてください。

誰のものでもない思考と

誰のものでもない感覚。



そうなると、それがあっても

排除しようとか、

どうにかして、気持ちを楽にさせようとか

今じゃないどこかへ向かう必要も自然と無くなってきます。


あ、キャラの話がぶっとびましたが、

私たちは、イメージとかキャラとか何も所有できないんです。

もともと所有する人がそこには居ないので、

もう何でもありなのです。

なんでもありというと、抵抗があるかもしれませんが、

実は「なんでもあり」の起こってる世界が先にあって、

それに後付けで私たちがいつも概念を持って説明を加えてるだけなのです。



だから今日の私と昨日の私、

10年前の私と今の私、

数分前の私の気分と今の私の気分、

ぜ~~~んぶ違って逆に当たり前なのです。

私たちは何か固定されたものではなく、

常に変化するものなのです。


なので、何か固定されてしまっている概念やイメージをつかんで離せないと、

それが苦しみになってしまうのです。


こんなんもありなんやな~~~、

お!今日はこんなんか~~~

みたいに、

出てくる感覚とそのまま一緒に過ごしてあげると少しずつ何かがゆるんでくるかもしれません。



あるがまんまの世界っていうのは、ほんとに何も起きてません。

概念を脇に置いてみたときに浮き上がってくる「そのまんま」にくつろいでみてください。





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やーやーやー。 今日は非二元の視点からのお話。 非二元でよく「私はいない」 っていう言葉を聞くと思うのですが、 最近、ほんとに「わたしなんてものはほんとにどこにもいないな~」 なんて気付きがあがってきます。 苦しみや、不足感、などは全て分離の錯覚と言わ ...

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やーやーやー。

今日は非二元の視点からのお話。


非二元でよく「私はいない」

っていう言葉を聞くと思うのですが、

最近、ほんとに「わたしなんてものはほんとにどこにもいないな~」

なんて気付きがあがってきます。


苦しみや、不足感、などは全て分離の錯覚と言われますが、

この「私がいない」ということが明らかになってくると、

苦しんでた自分、

焦りを感じる自分、

辛い自分など、

そんな自分はどこにもいなかったんだな~っていうのがなんとな~く見えてきます。



全ての苦しみや、抵抗は

この「私がいる」という思い(思い込み)からきています。




私がいる。

私がそれをしてしまった。

私が罪悪感を感じる。

私に責任があるように感じる。

私に言われてる気がする。

私の物だから無くなるのが怖い。



この「私」が取れちゃうと、それは単なる、

感じることがある

それをしたという経験がある

見るがある

聞くがある

起こった出来事がある

人がただそいう言う言葉を発したということがある


という、「ある」だけが残ります。



経験があるだけで、そこに行為者がいたり、誰かがそれをやっているというわけではないのです。



ほら、他人に起きたことって、案外どうでもいいでしょ???特にどうでもいい知らない人。(急に口調が変わった!)

親戚とか家族とか友人とか身近な人に何か起きたら、なぜかとってもザワザワ。

それは「私の家族」とか「私の身近な人」って

「私の」が強くなるから、起こった出来事がとても重要で深刻なものになってくる。

けど、ニュースで遠い異国の誰かが殺されたとか、

学校で知らない子がこけて怪我をしたとかってなると、

「私」が絡まないから「へ~~っ」で終わる。



で、「私」がいる時は、この「私」という感覚をとてつもなく強く持っているから、

起こる出来事全てが、自分にとってとても意味があるし、

無視できないような重大なことが起こってるように感じちゃう。


けど、そんな「私」自体、もともといなかったんだ!ということが気付きとして起こってくると、

起こることだけが起きているということが見えてくる。

と同時に、抱え込んで悩む中心がいないので

何かと楽ちんに感じられます。






このブログも、kaitekiという人物が書いていると誰もが思うと思いますが、

ここにkaitekiというものは実在しないのです。



kaitekiと思われる人。

お片づけの事をブログに書いてる人。(もうあんまり書いてないけど~)

36歳で汚部屋を脱出した人。

なんだか最近こんなわけのわからん話を良く書くようになった人。

などなどkaitekiに関して、みなさんそれぞれ色んな思いがあると思いますが、

それらはいっさいがっさい概念であり、思考です。



その概念を一つずつ取っ払って、最終的に全てとっぱらうと、ここに行為者はいなくなります。



ただ「書く」と

ただ「見る」が起こってるだけで、

kaitekiが書いてるわけでも、

読者の誰か個人がこれを読んでるわけではないのです。




ほ~~~~~んっと全て何も起こってなくて、

自分に対して起こってる出来事というのは何もなくて、

自分が誰かに何かをしたことなんて何もなくて、

いたと思ってたのは、

そうしたと思ってる自分であったり、

人に何かをやらかしてしまったと思ってる自分だっただけで、


ぜ~~んぶ頭の中だけで作りだされていた単なるお話だけだったんだ!ということが明らかになります。







ここに書いてある文章は、だからどうするということは一切ありません。
ふ~~んと思ってすぐに閉じて、忘れてくださいね。

でないと、また思考がわかろうとわかろうと一生懸命になって、モヤモヤしちゃうことが起こるかもしれないので。笑
逆に読むだけで何かに気づく人もいるかもしれません。

ただ、読んで、忘れているだけで、ふと何かから気付きがくることがあるので、
いつもながら、ゆっくりのんびりとお過ごしください♡







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やーやーやー。 先日コメントをくれた人のコメントをお借りして記事いきま~す。 コメント なんかさぁ、気のせいかな~?って思ったりもするけど、力抜いて、ちょっと投げやりなくらいに『もういいやー』ってなったら上手く行く気がするよね~ それがなかなか難しいん ...

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やーやーやー。


先日コメントをくれた人のコメントをお借りして記事いきま~す。


コメント

なんかさぁ、気のせいかな~?って思ったりもするけど、力抜いて、ちょっと投げやりなくらいに『もういいやー』ってなったら上手く行く気がするよね~
それがなかなか難しいんだけどね。。




気のせいじゃありません!!!!


実際にそうなのです!爆


「もういいや~~~~!」

って気持ちには

どうにでもなれ~~~~!!!!!!


って気持ちが含まれていて、

どうにでもなれ~~~!!!!

って気持ちには


「もう結果がどうなろうと私は知りません!」



結果がどうであれ全部受け止めます!!!!


という気持ちが入っています。





結果にこだわらず、全てをもう天に任せる!といった感じでしょうか。

その天が下した結果を私はそのまま受け止めてやるぜ~~~!

もうどうにでもしてくれ~~~~~!!!!


ってな感覚ですかね。



結果をどうにかコントロールしようとする時、

とてつもない抵抗が生まれて私たちは苦しく感じるわけなんだけど、


そのコントロールを手放すとき、

自分では考えもつかないとこから(想像を超えるとこから)の力が働き始めます。



コントロールしようとしてるときは、なかなかうまく行かないように感じる上に、

結果どうにかコントロールして得た結果も、まあ、だいたい想像の範囲内の結果だったり、

ま、どうにかなったから安心したわ。。。くらいの結果だったりします。




そう。すべて、過去の自分の記憶のデータを元に、未来を想像、予期するために、

自分のデータにない新しい結果をもたらすようなことは、自分の力では想像(創造)できないのです。



つい先日、友人とも話ししたのですが、


なんでもかんでもすぐに決めてしまう!

決めて、予定通りに進み、予定通りに終わることが安心。

という人もいるかと思いますが、

決めてしまうと、

そこに、新しい「何か」が入ってくる余地がなくなります。(自分で入れさせないようにコントロールしてるわけでもありますが)

もちろん、その新しい何かというのはがっかりすることかもしれない。

けど、もしかしたら想像以上のすばらしいことかもしれない。

がっかりすることが嫌で、そうならないように先に全部自分でシュミレーションしてしまうんですね。

でも、もし何も決めずに、空白を作っておくことで、

その結果は限定されたものから無限大に変わるわけです。


で、またここでもやっぱり

どっちの結果をも受け取る覚悟が必要になるわけです。



その覚悟怖いですよね~~~。

でも、

えい!!!!

どうにでもなれ~~~!!!!

って自分のコントロールを手放したとき、

見えない力が働くようになります。



見えない力っていうと、特に現実主義の場合は受け入れがたいかもしれませんが、

世の中で、

スゴイことを成し遂げた人、

上手く行っている人、

たいして努力もしてなさそうだけど順調な人

っていうのは、

この見えない力にものすごく助けられているのです。

それは、

その人たちには、

結果を恐れずに進むという覚悟があるからだと思うんです。

在る程度のことは、努力したり、対処したり、万全をつくしてみる。

けど、それ以上、自分ではどうこうできることじゃないと分かった時点で、

後は、

「もう任せた。結果だけ自分で受け止める!」

といった感じでしょうか。


これは、大きな結果の時だけに限らず、

日常生活全てで、私たちは、この見えない力にゆだねて、生きてくことができます。




流れに乗るとか、

宇宙におまかせ

とか、

思考活動を手放す

とか、

いろんな言葉で言われてますが、

スピリチュアル的に言ったら、宇宙に任せるですが、

現実的に言ったら、覚悟を決めると同じような気がします。



そして、一つ一つを手放して行き、

もはや自分でコントロールしている感覚が薄れて行く時、


「私は生かされている」という感覚に少しずつ変化して、

さらに現実に対しての抵抗が弱まってくる気がします。



結果は出た時にちゃんと受け止める。

どんな結果であれ、

その時には、それしか起こってないわけだから、

それの起きてることに真摯に向き合えばいい。

それが最善で、一番いい形で起こってるわけだから、

それに抵抗する必要は何もない。


そこに、過去や、期待や、概念を持ち込むから、

これ以外の違う結果があったはず!とまたブツブツとマインドが言い始める。


起こることはこれ以外にない!!!!


とんだ覚悟が必要やな。


ま、覚悟っていうと、ほんとに構えちゃうけど、

結局は全て全体にお任せってこと。



わからん~~~~!!!!

どんだけ考えてもわからん~~~~!!!



そら、分かりませんわ。

知ってることの範囲でしか人間は考えられんのんだから。

でも、自分が欲しい答えっていうのは、

その過去の経験と記憶の中には絶対にない!

だから、そこから、答えをみいだそうとするのを諦めて、

わからんまま天に任せておくと、

ひょいって、新しい答えを持ってきてくれるんだよね。



どうにでもして~~~~~!!!!!


お任せっす!


で、ちょっとやってみてください。


肩に力入ってる時は、起こってることをどうにかしようとコントロールしようとしてるとき。

それに気付くだけでも、肩の力が緩みます!








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やーやーやー。 今日は苦しみについて。 にほんブログ村 苦しみっていうのは 今あること、今起こっていることへの抵抗です。 今起きてることに対して、 「あ~もっとこうだったらいいのに」 「もっとこうしてくれたらいいのに」 「他の方法があるんじゃな ...

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やーやーやー。




今日は苦しみについて。



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苦しみっていうのは


今あること、今起こっていることへの抵抗です。


今起きてることに対して、

「あ~もっとこうだったらいいのに」

「もっとこうしてくれたらいいのに」

「他の方法があるんじゃないだろうか」

「あ~!あの時にもっとこうしとけばよかった」

「私が悪いからだろうか」

と、

今じゃないどこかに答えを求めることです。



よくよく考えてみると、

今目の前で起きてる事以外はすべて頭の中でしか起きていない、想像の出来事です。


その想像の出来事を更に膨らませて、人はどんどん苦しんで行きます。


今あることに大きく抵抗すればするほど、苦しみも大きくなります。




人は、過去、現在、未来、という頭の中の時間軸(想像の時間、概念)を使って、

また過去の経験からのデータを用いて、原因と結果(概念)を考え、

そういった、「実際には目の前で起こっていない出来事」=幻想の世界で生きています。


自分の苦しみも喜びも全部頭の中でしか作られていなかった。


起きている出来事というのは、つねに中立であり、

誰をも批判もしなければ、誰をも罰したり裁くこともない。

どちらに味方してるわけでもなく、

どちらかを有利にたたせているわけでもない。

ただそう在るだけ。



無条件でそこにそうあるだけです。






それを私たちは、概念を使って、


ただそう在るものに対して、あらゆる解釈、判断、概念をつけて、それを意味づけていくのです。

そして、その意味づけられた自分の世界で生きて行く。


だから、その意味づけが自分にとって不都合であればあるほど苦しいわけです。



ほんとは、何もない。

何か特別なことが起こってるわけでもないし、

何か特別じゃないことが起こってるわけでもない。


ただ全ては私たちが考えたりする前に全て起こっていて、

私たちがそれを解釈して、意味をつけているだけ。


無条件というのは、文字通り

条件無しに、

判断だったり

良し悪しだったり

全ての解釈、

何の意味も

ラベルも貼られてないありのままの様子です。



そのラベルを貼ったのは私たち人間です。

自分が何かを意味づけて、

解釈したとき、

その解釈貼ったのはどこから来たのかな?って自分に聞いて見るだけで、


実はどこからでもない、

単にどこからか受け入れて自分が勝手に採用してしまったもの…ということに気付きます。


すこしずつ気付いて、


実際、今、目の前には何の問題も無いと気付くとき、人は長い夢から目覚めるのです。


夢から覚めても、

また、習慣のように、すぐに意味づけをして、

また違う場所へいこうとしたりします。

けど、

そのたびにまた気付いて、今に戻ってくるようにする。


そうこうしてるうちに、

今起こっていることと共に生きるようになります。




今じゃない違うどこか、

今じゃない違う何か、

これじゃない他の方法、

これじゃない状態、

これじゃないとこ、今じゃないとこに絶えず行こうとしている時、

そこには、ずっと不安と不足が付きまといます。


でも、実際には、


これしかないのです。


今起こってることが全て。


それ以外には何もないのです。


過去も未来も、頭の中の幻想であり、

原因と結果も頭の中の幻想なのです。



私が長い間、ずっと不足感を感じ続けていたのは、

この「今」をずっと否定しつづけていたからです。


これじゃない。

違う。

こんなはずはない。

自分の中にある恐れすら、

何かを手に入れたらこの恐れは消えるはず。


今からずっと逃げて、違うどこかに、私が求めているものがあると思い続けてたのです。


けど、気付きました。


そんな私が求めているものなんて、どこにもない。


どこを探しても、永遠に見当たらない。


だって、私が求めているものは、


何でもない「今、ここにあるものだった」から。




最初は、こんなわけない!!!

これのはずなわけない!!!!

こんなつまらんものを追い求めてたわけじゃない!!!!


またまた抵抗もいっぱい出てきました。




けど、結局「これ」や「今」に寄りそっていると、


不思議と、

過去と未来がす~~~~っと消えていくのです。

不足感が無くなって行くのです。


いつも足りない足りないっていう感覚が薄れて行きます。





不安や不足を感じるとき、

それはいつも、「今」からずれていることを教えてくれます。



今を受け入れるということは、

結構覚悟がいるように思えます。


なぜならば、

不都合に感じること

ネガティヴに感じること

嫌だと感じることすら

全て受け入れていく作業だから。




不都合を受け入れるのは嫌だ、怖いという、

過去の記憶のデータが瞬時に上がって来て、

変化を受け入れないように防衛しようとします。



最初はとても恐ろしく感じますが、

その恐れも受け入れて

恐れと共に一緒にいると、

その恐れがやがて、空(くう)に帰っていきます。



怖い事が起こっているとき、

誰かが一緒に居てくれて、

怖いねー、怖いねー、でもきっと大丈夫だよー

って言ってもらえるときっも安心しますよね!

怖いのが和らいでいきますよね。

それを自分にやっていく。


恐れが出たとき、

「やだ!見たくない!」

って、目をそらす時、

見ない事はできても、

隠しただけでその恐れ自体は無くなるわけではないのです。


全部受け入れて、

今と共に生きるようになるとき、



何も必要なかった

恐れを紛らわせるために、自分の外側を強化する必要なんてなにもなかった

わたしはそのままで問題など最初からどこにもなかったんだ、


という気付きがもらえます。







いつも読んでくださる皆様ありがとうございます。なんか、書きながら、「あれ?これなんか前にも書いた事ある気がするー!」ってなったんですが、今、また書いて!!ってことみたいだったので、そのまま書きました!誰かピンとくる人がいるかもです。

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