おうちのぶろぐ 汚部屋脱出女の快適生活

36歳で汚部屋脱出。捨てるお片づけ、お掃除、いつでも人を呼べる心地いいお部屋作り。心と思考のお片づけもやってます。

カテゴリ: 非二元・ノンデュアリティー

やーやーやー。 この世界はほんとにシンプル極まりないくらいシンプルなんですね。 起こってることが起こってる。以上!くらいシンプル。 で、そのシンプルな世界は元々自由で平安で不足なしなんです。 じゃあ、なんで不自由さであったり苦 ...

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やーやーやー。



この世界はほんとにシンプル極まりないくらいシンプルなんですね。


起こってることが起こってる。以上!くらいシンプル。


で、そのシンプルな世界は元々自由で平安で不足なしなんです。




じゃあ、なんで不自由さであったり苦しさだったりを感じるかっていったら、


概念がそのシンプルさを見失わせてるんですね。


もともとな~~んにもないところに、


人は、概念や、判断を乗っけて自分の好きな物語をくっつけて生きてるんですね。


その物語をパカっと取り外すと、

なーーんも起きてない世界、宇宙の調和だけが広がってるんですね。



そうはいうても~~!ってなるかもしれませんが、

そうはいうても~~~~~!!!!!っていう思いが、

自由やシンプルさを見失わせてるだけで、

そうはいうても~~~!が起こっても起こらんでも、

自由や平安はもうすでにあるっていうことなんですね~。


だから、

安心して

ホェ〜、ホヮ〜〜〜〜っと緩んで、

やりたいこと浮かんだらパァーーっとやって、

シューンってしたらシューンとなって、

また活力湧いてきたらドッカーンと動いて、

疲れたらまた牛のように寝て、

仕事始まったら仕事して、



起こっとらんことにエネルギー注ぐんじゃなくて、

起こっとることに100%くつろいでたらいいんですねー。










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やーやーやー。 概念ちゅうもんは、 変化し続ける全てをすぐに固定しちゃう性質があるんですね。 その固定が、「檻」みたいなもので、 固定されたものの中で私たちは収まり、 わーわー ...

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やーやーやー。



概念ちゅうもんは、

変化し続ける全てをすぐに固定しちゃう性質があるんですね。



その固定が、「檻」みたいなもので、

固定されたものの中で私たちは収まり、

わーわー幻想ゲームを始めるわけです。



過去や未来はない!!今しかない!とスピリチャルではよく言われるんですが、

過去や未来は空想の中だけにあるものなので、

過去の記憶や未来の想定が湧いてきたとしても、それは「今」湧いてきてることなんですねー。


 だから今しかない。

もっと言うと、今すらもない。笑





で、私たちは、ずっと過去未来現在っていう時間軸の中で生きてるっていうのを信じていているので、

ずっと同じ「私」が死ぬまで永遠に続いているっていうふうに思ってるんですね。


ずっと「同じ私」だと信じているので、

同じ私は、言ってることをコロコロ変えるわけにいかんのです。


概念(自我ちゃん)は固定されることで安心しますので、変化を嫌うんです。



矛盾も嫌いですし、

つじつまが合わんことが嫌いですし、

過去と今と一貫性を持たせたいわけです。


そうしないと「私」が消えていなくなるような感覚になるからですね。



でも、元々そんな持ち続けられる「私」なんていないんです。

「私」=個人というのは単なる概念によって構成された想念の塊ちゃんなので、

日々、毎日めまぐるしく変化する

身体、思考、感情、感覚を

概念という固定の檻の中に収めておくのはほんっとうに無理があるし、苦しいんですよね。


昨日言ったことと、今日言ったことが全く違う、感じてることは全く違うのはむしろ当たり前のことなのに、


「言ってることが食い違ってはいかん!」

とか、

「つじつまが合わないこといったら、あの人なんなの?って信用されない!」

とか、

「自分の信念を通さねば!」

みたいな思考で、ガシッとブロックして、

自由さをどんどん奪っていくんですね。



今朝、息子くんがゲームをしてるときに流れてた音楽が、すごい壮大で、かっこいい音に聞こたんですよね。


で、

「なんか、かっこええ音楽やな!戦いって感じでなんか好きやわ!」

って私が言ったら、

「ママ、前この音楽聞いたら、なんか怖くて不安になるから嫌い言うてたよ!」


(((; ఠ ਉ ఠ))!!!!!!!


笑うてしまいましたわ。



「あれ?そんなこと言うてたんやな!はははははー!」


こんな具合で、

人っちゅうもんは、

その時の心次第で、事実=単なる音楽がここまで違って聞こえるわけなんです。


けど、

毎日毎日同じ「私」を持ち続けてると、

感じ方が変わったとしても、

その感じ方を表現することを変えちゃマズイ!と思考で塞ぐわけです。

それくらい無意識にただの「概念」のために自分を枠の中に閉じ込めてるんですね。


私は、

その檻の中がとても苦しかったので、



言ってることはバラバラしててもええ。

さっきと今の気分は変わるもの

つじつまが合わんのが当たり前

去年言ったことと、今日言ったことが違うのは自分軸がないとか関係なし!!



みたいに、

持ち続けてた変化を止める概念を見直してあげました。

真逆の性質の概念を受け入れたんですね。


すると、概念は打ち消されて消えます。



多分、私は、

世間的に言うと、

ちゃらんぽらんの忘れっぽいおばさんになったかもしれませんが、

自分的には

囚われてること(ちゃんと覚えとかんといかん!矛盾したらいかん!一貫性もたないかん!)から解放されて

今感じてることを感じ、表現し、

自由さや楽さを味わえてる感じがします。

そこには、もはやつじつまが合う合わないもありません。


あるのは、リアルな表現だけです。


それに伴い、

「また忘れたんか!」とか、
「この間、言ってたのと違うじゃーーん!!」とか、
「ママがこうしろ!って言ってたのに、なんで今日は言うこと違うん?」みたいに言われることもありますよ?!笑

(最近は、もう諦めてくれたようで言われもしなくなりましたが)


けど、

それでいい!ってか、それがめーーーーっちゃ楽だし、楽しいから、

何言われてもわりと平気なんです。

これが、本来の自分って言われてることなんかなー?本来の自分に戻ってると、ほんとあんま周りのことは気にならんのんだなーって感じてます。

だから、周りがわーわー言うて、気になってる時って、

「早よ、本来の自分に戻りなさいよー!」って教えてくれてるって言うけど、

戻ってしまえば、周りが静かになる=気にならん

って言うのがすごく分かる気がしました。


もちろんもちろん、

いつも書いてるんですが、

一貫性を持ち続けてもいんですよ?

握りしめ続けることもオッケーです。


宇宙は壮大な愛ですから、

そんなことすらも、何も言わずに黙ってオッケーだしとります。


だから、

どっちが心地いいか???ですよね。


けど、固定されたものの中に居続ける、固定に自分を合わせるのは、宇宙の生の流れとは違う在り方なので、苦しいかなと思います。


つじつまが合わんのは、

本来変化するものが、固定された中で変化してるから合わなくなるだけで、

変化を許していれば、

つじつまが合うもの合わん自体も消えてなくなるんですね。


変化を許せば、概念も自ずと消えるわけです。



平安や自由は概念の外にあって、

それらは、もうすでにあるんです。

概念の外というより、

概念が外れたところ全てがもう自由と平安。

どの人にももれなく。


概念とは固定

私たち、生そのものは全てが変化です。

毎瞬、新しく生まれている自分、感じている自分を概念をつかまずそのまま出してそのままの自由さを楽しんでいればよかったみたいです♡




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やーやーやー。 長いですからねー。 トイレに行って、コーヒーでも持ってきて、 気楽に読んでみてくださいねー。 自分を大事にしてあげたり、認めてあげる、、 許してあげたりってどういうこと ...

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やーやーやー。



長いですからねー。

トイレに行って、コーヒーでも持ってきて、

気楽に読んでみてくださいねー。



自分を大事にしてあげたり、認めてあげる、、
許してあげたりってどういうことか難しいです…というメッセージをいただくことがあるので、

ちょっと書いてみようかな〜と思います❤︎


これってねー、

私も最初は、自分が生きづらく感じてるのを少しでも和らげようと思って、
自分を許すとか、自分の声を聞いてあげるとかを始めたわけなんですが、

ところがどっこい、

これをやってくうちに、

つまり、自分を許せば許すほどに他人も許していってるってことに気付き、

それが進むにつれて、もうほんとに、周りの人や、状況は何一つ悪いということはなかったということがだんだんと見えてきたんですね。


かといって、自分が悪かったのか?と言ったら、

これまたそうではなく、

どっちも何も良い悪いはなく、

ただただそうであっただけということがわかってきたんですね。


それまでは、ただそうであることに、


それはオッケー、それはダメ、

それならいいけど、それはいかん!

みたいな、

観念によるジャッジがありすぎて、

常に自分にとっての正しさ、正解みたいなものを他の人や周りのことに当てはめようとして、

勝手に苦しくなっちゃってたみたいなんです。


それもそうなんですよね。

元々は、起こることが常に常に先にあって、

後付けの概念でそれを分けようとしていただけで、

起こっていることというのは、そんな概念で収まりきれるものではなかったんですね。

その収まり切れないものを、概念の中に収めようとするから、

無理が出てくる。


ほんで、

違う~~違う~~!違うだろ~~!!!!!

って言って、ワーワー騒ぐんですが、

ちゃいますのよ!!!

違うのは後付けの概念の当てはめが違うんであって、

起こってることは何も問題がなかった!っちゅうことだったんですね!笑

起こってることは無限で、それしかないんです。もともとは、なんの概念も当てはまることのないことが

ただ粛々と起こってるんですね!




話脱線してますが、

自分を許していくというのは最初、わたしは、

やりたくないことをやらない、

やりたいことをやる~~みたいな感じでやってたんですが、

   
自分の中にたくさんのルールや規則を作ってる人はなかなかできないことだったりするんですよね。

けど、

それができない!!

っていうのを縛ってるものは



単なる概念だけ!ってことなんですね。


そうなんです。

自分でも、周りの人でも、なんでもない。概念だけなんです!!!!

そうは言うても、周りの人がいろいろ言うてくるんです~~。っていうのも、

それは、あなたの中にその概念を持ち合わせてるからです。

その観念を持ち合わせているがために、相手の言うことにちくいち反応を起こしているだけなんですね。

その縛ってる観念を持ち合わせてない人は、まったく反応しません。

そして、世界は自分の投影なので、

ルールや制限でガッチガチの人には世の中はそのように厳しいところのように見えますし、

ゆるゆるで何にも考えてない人には、世界もゆるゆるで何にも問題がないように見えるわけです。




やりたいことをやる、

やりたくないことをやらない

って簡単そうに聞こえますが(いや、簡単な人にとっては簡単ですよ( ´͈ ᗨ `͈ )それが当たり前って人もいますから❤︎)

自分に厳しかったり、ルールがたくさんある人はすごくむつかしかったりするんですよね。

私も、それをやるなんて~~~恐れ多いわ~~~!っておどおどしながらも、

自分の中で持っていたたくさんのルールを破り、自分の中でのタブーを犯しつづけて

この2つを日常生活に当てはめてやってたことがありました。


そしたらねー、

だいたいが、

自分で我慢してたり、抑圧してたことが

身近な人が堂々とやってたりして、

それ見て、ムキーーってなってただけで、

なんや、自分もそれやること許してしまえば、

相手はなんも悪いことなんてなかったわ!!

ちゃんちゃん!ってなるわけです。


それが、私の場合、いつのまにか自然に観念の解体という形になってたんだと思います。

で、この観念が解体されればされるほど、

楽ちんになっていったんですね。





ほんでほんで、

解体すればするほど、


良いや悪いの境界線が薄くなり、(境界線なんてものもほんとはどこにも存在しない観念だけの中の幻想です)

こっちでもいい、

あっちでもいい、

どっちでもええや~~~ん!!!!

みたいになって、

どっちでもえや~~ん!

ってことは、

つまり、

こだわりやルールもあってもええや~~~ん!

それに縛られてたとしてもええや~~ん!


って結局元のまんまで何も問題がなかった!!!!!爆

ということに気づくんですね~~~( *´艸`)




そうなってくると、



なんや!全部自分が作り出してただけやん!!


ってとこを感じ始めるわけです。



全部が全部自分。

元々何もないところで、

阿波踊りをしてた自分を見るわけです。


で、


また話、ぶっとんでますが、

自分に掛けてるあらゆる制限を解除して、

概念から解放されていくと、

今まで区切っていたものが、

ん???どうも、どれもつながってるんじゃね? 

ってのが見え始めて、

もう、ほんっとに何が何でって境目が見当たらなくなり始めます。


自分を許すことと他人を許すことに境目がなくなる
自分が楽になると他人も楽になることがわかって、どっちも自分じゃんって思えてくる。
観念を手放す=執着を手放す
執着を手放す=そのままでいいことがわかる
執着を手放す=自分がくっついていた概念から解放される
概念から解放される=そのままで何も問題はない
自分は問題はない=周りも問題がない
問題はない=問題があっても問題がない
問題がない=許さなきゃいけない自分なんてほんとはいない
自分の内側=外側
内側も外側も一緒になってくると、内も外もなくなる

ぜ~~んぶいっしょや~~~~!!!!

最初っからそんな境目どこにもなかったんやんけ~~!


ってな具合でエンドレスに全部つながっていく。


そんな感じで

もうなんでもよいんですわ~~。

つまり、一つのエネルギーが形を変えて、好き勝手に表れてただけ~~~っていうのが浮かび上がってくるわけです。


その元々1つだったものを私たちは、ぶつ切りにぶった切りにぶった切って、

その区別した小さな檻の中に自分たちを閉じ込めて、

あ~でもないこ~でもない劇場を楽しんでたわけなんですね。


すいません。

また長々とわけのわからない話をしておりますが、

要は、

赦さなきゃいけない自分なんてほんとはいないんです。

けど、

もし、苦し~~とか、生きづらい~~って感じてるんだとしたら、

「制限」という檻の中から自分を出してあげることが自分を許すことにつながるのかなって思います。


その制限とは「観念」です。
観念には実態がありません。

その実態のないものにおびえるのではなく、
自分は観念を見ているほうの大きな存在のほうだということを思い出していくことです。




もう、自分を癒すとか、大事にするとか、方法はたくさん世の中に出回っていますが、

最終的にはそれすらも、檻の中でやってたことだったということに気付き、

夢から目覚める人がどんどん増えはじめると思います。


私も、自分がやったという「癒す」方法はなんぼでも書けます。

過去ブログにはずら~~っとやってきたことは書いてます。

けどそれも全部「檻の中」でやってたことだったんですね。

檻の中の状態はめっちゃ良くなってるように見えることはありました。

でも、私たちが本当に望むことは、


「檻なんて元々なかった!」という気付きです。

そのことをこれからはもっと書いていけたらな~~♡って思っています。



結果、

全く質問の答えにならないことをツラツラと書いてしまいましたが、

引き続きよろしくお願いいたします。









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やーやーやー。 全部全部、ぜーーーんぶあっていいんだーー!!! もうね、非二元の話になってくると、 「言葉の限界」ってことをよく耳にすると思うんですが、 ほんっと、その通りで、 何も、これを言葉で ...

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やーやーやー。


全部全部、ぜーーーんぶあっていいんだーー!!!


もうね、非二元の話になってくると、

「言葉の限界」ってことをよく耳にすると思うんですが、

ほんっと、その通りで、

何も、これを言葉で表せないし、

言葉じゃ追っつかない!!


だから、

「あるがまま」「問題なし!」「以上!!」


と、言葉にした人は、すごいわ!と思うわけです。笑


マインドや自我では

どんなにありえない、嫌なことですら

完璧!と表現されてることも、

無限で全ての起こりを許してる宇宙からしたら当たり前かーーー!!

みたいになってくるわけです。


もう、何が起こっても許されてる事しかない。


許されないことですら、許されているから起こっている。


どこまでいっても許されているしかないんですね。





私の父が認知症になったんです。


8年ほど前にガンにもなってます。
お父ちゃん、頑張ってるわー。


表面的に、あらゆる感情、思考、先の事、全て湧いて出て来ました。


ぜーーーんぶ、否定せず、否定が起こっても、また否定せず、



後悔、
不安、
悲しみ
親に何かしてあげたい私、
何もしてあげれない私、
ほんとは面倒なことになったなと思った私、
かわいそうな私、
母親が心配な私、
なのに母親の父親に対する対応をもっとこうしたらいいと思った私、
他人の親切が重く感じた私、
親切に感謝が湧いた私、
みんな穏やかに暮らせたらと願う私、
帰ることが増えると大変だなと思った私、
父の機嫌を見る私、
笑っている父を大好きと思う私、
みんなが笑ってる時、これが続けばいいのにと思う私、
母に八つ当たりをする父をうとましく思う私、
それでも、なんとかなると思う私、
その時、その時に考えればいいと思う私、
薬を飲んで進行を遅らせれたらと思う私、
いっそぶっちぎって動けなくなったら父は楽になるんじゃないかと思った私、




ただただ出てくるものをそのまま出して、感じて、


「ある」

をそのまま出してあげました。


私の中にある醜さも、

私の中にある美しい部分も

全部私で何1つ間違いがないことが分かりました。

全て全て、何も問題が無かったのです。

全部がただ起こっていて、


この気持ちを

そんなこと思っちゃダメとか蓋をすることも何をする必要もないことを知りました。


すごく平安でした。

起こってることは、一般的に見たら大変なことなんだろうと思います。

親戚も、ワーワー言うてます。

ほっといてほしいと思うことにも首を突っ込んできます。

私も久々に昔の思いが蘇ってきて大量に涙がでました。

母から父の話を聞いてると、二人で笑って、「お父さんコントやな!」ってなるときもあるし、
どないしよ~どないしよ~って深刻になるときもあるし、


けど、それを含めて完璧でした。

「ある」ことと、共にいると、完璧と思おうとする自分すらもはやいなかったように思います。



父の話をトド(夫)にするたびに、

「お父さん吉本新喜劇じゃな!」って笑い飛ばしてくれることもあれば、

地元の親戚は、笑いほぼ無しの、ちょ~~真剣深刻さで、ちくいち心配してくれたり、

認知症一つに対する捉え方がおもしろいほど違う!

周囲の人の反応(現象)が私の心の中のさまざまな反応と同じで、

あ~~~~!!!!もうほんっとに全部わたしじゃ~~ん!って笑えてきました。
  


外側がどんな状況であれ、

内側がどんな状況であれ、

本当の私は、

それを全て許して、起こさせてる全体のほうなんだな~~って、

ほんのわずかな思考の隙間に気づきが舞い降りてきて、

それは、ただただ全てを見守っていました。

そこはとっても穏やかなところでした。


悲しみも喜びも、
善悪も
幸せも不幸も

何1つ弾くことのない無条件の中で私たちは生かされている。


許せば許すほど、

感謝と平安ですでに埋め尽くされてることに触れ、

私は概念によって定義付けられるどんなものでもないし、

また、どんなものであってもいいと感じさせてもらえました。


どんな形であれ、父と母も同じです。

どんな定義にもあてはまらないもの。。すべてだったんです。

大きな大きな愛でした。


敢えて、今の父を言葉にするんであれば、

威厳のある父から、すぐ忘れる可愛いお父ちゃんに変わった感じです。

もちろん、いつもかわいいとかないですが(笑)

時に腹立つジジーですし、

おっちょこちょいですし、

病気とは思えないときもあれば、

完全にボケとる!ってときもあるし、

どんな定義にもずっと納めておくことはできないんですよね。


そして、私たちも毎瞬毎瞬感じることは変わります。


それで大丈夫だったみたいです。

何も、訂正する必要はなかったし、

訂正が起こっても、それすらも大丈夫だったようです。




どんな気持ちが湧いてきても、

またすべてと共に生きていこうと思います。

「枠」がないのがもともとの私たち♡

















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やーやーやー。 またまたえらいこっちゃに気付いたんですよ!! 先日、お金使ってお金が入ってくる人と、入ってこない人の違いを検証したでしょ。 ↓↓↓ お金を使って、増える人と増え ...

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やーやーやー。




またまたえらいこっちゃに気付いたんですよ!!




先日、お金使ってお金が入ってくる人と、入ってこない人の違いを検証したでしょ。
↓↓↓


で、

使っても入ってくる人は、

使った=全ての結果=完結=パーフェクト!!


みたいな図式で、

入ってこないと感じる人は、

使った→幸せをちょい感じる→ほんでいつ入ってくるん??

って感じで、

お金を使ったことが、結果ではなくて、

まだ、辿り着いてない達成するべき場所を他にある!って感じで、

使う=途中過程になってるって話だったんだよね。





自分の大好きなことに使った!!

終わり!!!

ハッピー幸せ!!!

大満足!!!

ではなくて、

使うこと=何か別の目的を達成するための手段になってるってことね。




でね、

生きていて、

全てに満足しない理由がここにあったことが分かったー!!!!




今ここに意識を向けて、

あることにフォーカスして、

それだけで、今が満たされてって、

ほんとはそれだけで今すぐ自由で幸せって、

そんな発信ばかり目にするでしょ!!(特に精神的、スピリチュアルで安住を求めてる人は。)


私もしてんだけど(*´艸`)


でね、

その今に満足できる時と、


できないときの違いを


昨日、めちゃハッキリ見たの!!!





驚かないでね!笑





今にフォーカスして、今意識をここにしても上手くいかないのは、


今にフォーカスして、今意識をここに置くことが、


結果じゃなくて、手段になってるから!!!



つまり、


「今を意識してるでー。めっちゃ今にフォーカスしてるでー!これが全てやでーー!!幸せはここにしかないんやでー!」





ほんで???


ほんで、それをしたら、私はどんだけ素晴らしい感覚を得られるの???






大爆笑!!!!!




また今を通り越して、
ぜんっぜん違うとこに意識がいってる!!


しかも、めっちゃ無意識に!!!



今に集中することで、何か他の素晴らしいものを手に入れようとしてる「わたし」!!!


お金と同じで、


集中することが何か別の物をもたらしてくれるわけじゃなくて、

集中すること=結果



だったのよ!!




これ、見つけたら、ほんま大爆笑ですよ!!!


そりゃー、どんだけ夢から目覚めたと言われる人たちが、

「全てがここにある!!」

とか、

「自由と平安は今この瞬間にあります!」

とか言うてても、気付かんわけだわ!!!


だって、

今、ここにあるものって、

どう考えても、「取るに足らないもの!」って「これじゃない!」って思い込みすぎてるんだもん!!



そう思い込みすぎて、これ以外のどこかにわたしの幸せがあるはずっていつもいつもいつもいつもいつもいつもどこかにアンテナ張って探してるんだよね!!


それでね、

幸せ=高揚感だったり、今より良い状態、ワクワク、良い意味のドキドキ、達成感、安心感、安定感だったりって、

もうとにかく、そうじゃないときは幸せじゃない!みたいに無意識に幸せ=〇〇って自分の中で図式を作り上げているのね!!



逆に、そんな信念があるもんだから、

幸せ=「ここではないどこかにある!」って思い込みすぎて、

今ここは、

真っ先に除外して、

今、目の前に起きてない幻想の中で、永遠に無いもの探しを始めるんだよね!!


完全なる虚構で!!! 




そら見つからんわ!!


それでね、

わたし、つい先日、

「なんかしなきゃいけない!今の自分じゃダメ!不満足!」って呪縛が解けた!って記事にしたでしょ!
↓↓↓
癒し日記 大きな荷物を背負ってたことに、降ろした後に気付く





この不満足な自分っていうのは、

常に常に、ずーーーーーーーーーーーっと不満足を作り続けるんだよね!!


その不満足さが、意識の根底にあるから、

常に

今よりほんの少しでもマシな何か
今よりほんの少しでもいい状態
今よりほんのすこしでもできる私
今よりほんのすこしでも素晴らしい私
今よりほんの少しでも良い状況を

期待しながら

ずっと探すんだよ!!



それでね、

探し続けてる限り、

ここにあるものが見えないの!!!


ここが結果で、ここが自由で、ここが完全だ!ってことを

完全に見えなくさせる!!


でね、自我はまた言うのよ。


「こんなつまらんことが完全なはずはない!」って!!


けどね、


その幻想の「何か足りないわたし」「何かしなくちゃいけない私」がいなくなったら、

自然にここが完璧な場所になる。

というか、

これ以外にないからならざるを得ない!!


エゴ的な「私」からそりゃーそりゃーつまらんのんですよ。

お金や家とか物質的なものが手に入るわけでもない。
名声や地位とか、承認でもない
高揚感でも、スリルでも、ワクワクでもない。



けど、それらが何もなくても、

心の底から

ここで、このままで大丈夫である

という感覚は何ものにも代え難いものです。


物質的な安住
精神的な安住、

それらを追い求めることでは絶対に知ることのない「それ」が今すぐ何もしなくてここにあった!!


何もしないというのは、

現象的な、動かない、働かない、寝とくだけとかそんなことを言ってるんじゃないのよ。


何かしようとしてる心の動き!!

何かになろうとする心の動き!!

何かと何かを比べたり、

優劣つけたり、

過去と未来の想像の中で動いてる心の動き!!


これらを全て、手付かずにすればするほど、

真実が何かがくっきりと浮かび上がってくる。






と言って、

また「手付かずにする」ことをしようとすると、

また何かを手に入れようとしてる心の動きが出てくるので、(手段になっちゃう)

ここはめっちゃトリッキーなとこなんだけど、

そこも

お!今そんな気持ちあるな。

って見てあげるだけでいいんだと思います。




いやーーー!!


ほんとにみなさん見て欲しい!!!

どれっくらい自分が、

ここじゃないどこかで、何かになろうとして、そのために心をセカセカさせてることを!!!!


で、こんなことに、たまたま大きな気付きを得て、

昨日から、ほんっとにしょーもないこと(エゴ的に見ると)で、ミラクルが続出!!


今までのミラクルとは桁外れに面白くないんです!!爆


でも、そんなことでも、まるで初めて体験するかのような感動を感じられたんですね。





また随時報告していきますね。








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やーやーやー。 いつもねー、 思い込み消してー、 自分が強く信じ込んでる概念消してー、 それをすると無意識の罪悪感から解放されてーーとっても楽チンーーー❤︎なんて書いてるんですがね。 最近、 ...

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やーやーやー。


いつもねー、

思い込み消してー、

自分が強く信じ込んでる概念消してー、

それをすると無意識の罪悪感から解放されてーーとっても楽チンーーー❤︎なんて書いてるんですがね。


最近、感じるのが

これ、「自我」にとったら悲劇っす。

完全なる平安は自我にとっては、おもしろくもなんともない悲劇。



思い込みや、

概念を1つずつ手放す度に、

「我欲」なるものも1つずつ消えてくんですね。



我欲が薄くなると、抵抗するものがなくなるから、

生きやすいさで言えば、

それはそれは生きやすいんですよね。


けどね、

自我ちゃんからしたら、

ほんっとに面白くないわけ。


それまでは、

その「我」をバネに

改善
向上
成功
結果

を求めたり維持してたわけなんだけど、


その「我」がなくなってくると、

それを求める必要がなくなってくる。


幸せな家庭やーーー!!

金やーーー!!

地位やーーーー!!!

生きがいやーーー!!

自分にしかできんことはなんやーーー!!!


が、ごっそり取れて、

今までこだわっていたことにこだわりがなくなる。

こうしなきゃ!

ああしなきゃ!!

こうじゃなくちゃ!!

がなくなってくる。


すると、自我は、何をバネにして人生を良くしていけばいいのか困惑して、

またすぐにピタッと引っ付いて生き延びる方法

つまり

「不足」

を探し始めるんだよね。


「あ〜平和❤︎〜!→→→なのに・・・」



の、「なのに」の部分を作り出そうとする。


ただただ平和!!に収めようとはさせてくれない!!


オーマイガッ!!



もー!ほんっとにズル賢い!!



けどね、

ここでも見えてくる。


「人生は良くしていかなきゃいけない」

っていう「わたし」=自我の思い込み。




あーーーー!!これすらも手放したら、

わたしはいったい何を目標に生きていくんだろうか!!!


は〜〜、ほら、またあるわ!


「人生には目標がなきゃいけない!!」って思い込み。なんなのよ…



私は自分が持っている概念を全て手放すことをこれほどにも恐れを感じている。


なぜなら、

自分がいなくなってしまいそうだから。


それはそれは自我ちゃんにとっては一大事!!!!


私=自我がいなくなるなんて、

自我にとっては、生きながらにして死んでるようなもの。



自分という人間、

kaitekiという人間を作り上げてきたのは、

単なる概念だけ。

その概念を見破ると、

そこにはもう「わたし」を指し示す言葉も、レッテルも、何もなくなり、

「わたし」が消え、

「存在」のみが残る。






一個ずつ張り付いてる概念を手放すほどに、

「私」がどんどん薄れて行く。


個人的な感覚の薄れ。


と同時に、全体に溶け込んでいく感覚。




自分ってなんやったんやろうか??

ってまるで他人事。



なのに、ただあるがままに生きることに

まだまだ抵抗している「私」もちゃーんといる。(←そこは完璧自我!)

ただただ、起こることに完全に身を委ねて生きることへの恐れ。

完全なる委ねを望んでるはずなのに、

いざ目の前にそれを突きつけられると

尻込む私。



自我ちゃんが、

そんなんしたらあかんーーー!!って引っ張り戻しにかかる!

「私」という個人が完全に解放されること

それは、個人的な欲望や欲求を全て放棄する時。


そう書くと、

自我は「なんや、そんなん全然魅力的でもなんでもないわ!!もっと欲出して、ガツガツと人生前に進んでいかな、生きとる意味ないわい!!」


って言ってる。




イヤ、遊ぶは遊ぶよ!?

これからも生活は何ら変わりはない。

今までとおり、

あーでもない、こーでもないやって、

あそこに遊び行って、ここに行って、

月末ピーンチ!やって、

子どもと遊んだり叱ったり、

悩んでみたり、

友達とランチ行って

本読んで、

ぜーんぶ全く今までと同じ。



そこには、全てを個人的に捉える「わたし」がおらず、

ただ「全体」の表現の中で遊ぶだけ。



多分、ここまで書いてきて、感づいた方おられるかもしれませんが、




わたし、ここに来てまた非二元の世界に引き戻されてきましたーーー!!




もー、なんなんやろかー。


結局、二元の世界で堂々巡りしてる私を引き上げようとしとるんやろか!!(←すごい、ナイス解釈!)



去年買った「神の使者」。(←非二元の分厚い本)


あまりに読めず、去年末の大片付けのときに、

もうええわ!と思って、売り払ったと思ったはずの本が、本棚に残ってる。謎!!


グラウンド10周して身体を疲れさせて寝るより、この本を数ページ読むほうが良く寝れるというくらい睡眠効果抜群のこの本をまた「読め」と言われた。(←誰にも言われてないで!)


あんなに読むのが難しすぎて断念した本が、今度は前よりスラスラ読める。


売り払ったと思ってた非二元関係の本が全て残ってる!!!怪奇現象やーーー!!(←売らんかっただけやろ!!)


もうーー!!ほんまになんなのーーーーー!!!


(←ただ起こってるだけ)



そんな感じで、

自分の興味、
目に映るものからのメッセージ、
すでに用意されてあるもの

何をとっても、その道から逃れられそうにないので、しばらくまた非二元性を楽しんでいこうと思います❤︎



興味あるかたは引き続きお付き合いくださいませーー❤︎








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やーやーやー。 12月に入ってもうこんなに日にちがたっていてびっくり! 先月の末に、クリスマスの雰囲気出すために、 アドベントキャンドルなるものを作ってきました~! 私がこんなモノづくりをするなんていうのもキャラじゃないようにも思えるんですが、 キ ...

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やーやーやー。


12月に入ってもうこんなに日にちがたっていてびっくり!


先月の末に、クリスマスの雰囲気出すために、

アドベントキャンドルなるものを作ってきました~!





私がこんなモノづくりをするなんていうのもキャラじゃないようにも思えるんですが、

キャラってなんでしょうね~。笑



人間って、そうやって、物ごころついたころから、

いろ~~んなイメージを自分と思ってる入れ物にペタペタ貼ってるんです。

私ってこうだから~~。

私ってこうなのよね~~。

私はこういうもの~~~。



そうやって色んなラベルを貼って、「私」という何かを作ってきて、

その「私」というものが必死に傷つかないように守ったり、良くしようって生きてるわけなんだけど、


実はそんな「私」っていうのはよくよく見てみると、どこにも居なくて、


最初からそんな「私」なんていなかった。。。


「わたし」というものをただの概念で作りあげていただけ

というのが分かってきます。


私たちがいつも使ってる「私」って、何のことを指してると思いますか??

身体???

思考???

感覚???

どれが自分だと思いますか???



はたまた全部ひっくるめて自分だと思いますか???


こうやって見てみると面白いんです。

私たちみんな、

体は自分の体だと思っているし、

感覚も自分のモノだと思っている。

思考だって、「私」の思考って。

でも、

身体=私

でもないし、

感覚=私

でもないし、

思考=私

でもない。


この3つは常に、

私の思考

私の感覚

私の体というように所有物として扱われている。


じゃあ、じっさいにそれを所有してる「私」ってどこにいるの?????って見てみると、

なんと、どこにも見つからない!笑


どこにも見つからないんだけど、

もう小さなころから、この体、感覚、思考が自分のモノと認識して生きてきたから、

それが定着しすぎて、私以外の何かとして考える余地がないんですね。

人間社会そのものがみんなそうやって生きているので、疑問に思うことすらもない。


ちっちゃい子どもって、名前を呼んでも、自分のこと呼ばれてるって気付いてない時があるでしょ?

「~~ちゃん!あなたのこと呼んでるのよ~!」って言っても、

ん??どれ??あ!!!!これ?これが私ってこと??みたいな。笑



だから、みんな元々は、この体を自分の体なんて思って生きて無かったし、

思考が湧きあがってきても、それが自分の思考だなんて思って無かった。

過去と未来をつなぐ思考なんてものも無かったし、時間という概念もなかった。

原因と結果の中に住んでなかったから、

何か起きても、次の瞬間にはケロっとしてた。


大きくなってくにつれ、

これはこうなのよ、

こうやったらこうなるのよ、

こうやったからこうなったのよー、

何時までに~~しようね~

これは~~って言う名前

ぜ~~~~~~~んぶ、教えられてきたんですね。


自分で何か直接経験しても、

それに説明が加えられて、

「あ~、それは悲しかったわね~~。」

なんて教えてもらったり。

「おおおお!これが悲しいというものなのか!」

と子ども心に思うかどうかは分からないけど、

それは元々は「悲しい」という感情でもなんでもなく、単なる何かの感覚だったわけで。

そうやって、

ただあった感覚、

ただあった思考、

をどんどん自分のモノとして、他のモノから分離させていって「私」ができあがっていったんですね。



だから、「私」って、実際の実体はないんだけど、

人とかかわって生きてく中での便宜上付けられた「後付け」の概念なんですね。




だから、もし、何か思考が湧いてきたり、

感覚が湧いてきたり、

痛みを感じたりしたら、

ただただ、それがあるんだな~~~ってゆる~~っと見てあげてみてください。

誰のものでもない思考と

誰のものでもない感覚。



そうなると、それがあっても

排除しようとか、

どうにかして、気持ちを楽にさせようとか

今じゃないどこかへ向かう必要も自然と無くなってきます。


あ、キャラの話がぶっとびましたが、

私たちは、イメージとかキャラとか何も所有できないんです。

もともと所有する人がそこには居ないので、

もう何でもありなのです。

なんでもありというと、抵抗があるかもしれませんが、

実は「なんでもあり」の起こってる世界が先にあって、

それに後付けで私たちがいつも概念を持って説明を加えてるだけなのです。



だから今日の私と昨日の私、

10年前の私と今の私、

数分前の私の気分と今の私の気分、

ぜ~~~んぶ違って逆に当たり前なのです。

私たちは何か固定されたものではなく、

常に変化するものなのです。


なので、何か固定されてしまっている概念やイメージをつかんで離せないと、

それが苦しみになってしまうのです。


こんなんもありなんやな~~~、

お!今日はこんなんか~~~

みたいに、

出てくる感覚とそのまま一緒に過ごしてあげると少しずつ何かがゆるんでくるかもしれません。



あるがまんまの世界っていうのは、ほんとに何も起きてません。

概念を脇に置いてみたときに浮き上がってくる「そのまんま」にくつろいでみてください。





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やーやーやー。 今日は非二元の視点からのお話。 非二元でよく「私はいない」 っていう言葉を聞くと思うのですが、 最近、ほんとに「わたしなんてものはほんとにどこにもいないな~」 なんて気付きがあがってきます。 苦しみや、不足感、などは全て分離の錯覚と言わ ...

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やーやーやー。

今日は非二元の視点からのお話。


非二元でよく「私はいない」

っていう言葉を聞くと思うのですが、

最近、ほんとに「わたしなんてものはほんとにどこにもいないな~」

なんて気付きがあがってきます。


苦しみや、不足感、などは全て分離の錯覚と言われますが、

この「私がいない」ということが明らかになってくると、

苦しんでた自分、

焦りを感じる自分、

辛い自分など、

そんな自分はどこにもいなかったんだな~っていうのがなんとな~く見えてきます。



全ての苦しみや、抵抗は

この「私がいる」という思い(思い込み)からきています。




私がいる。

私がそれをしてしまった。

私が罪悪感を感じる。

私に責任があるように感じる。

私に言われてる気がする。

私の物だから無くなるのが怖い。



この「私」が取れちゃうと、それは単なる、

感じることがある

それをしたという経験がある

見るがある

聞くがある

起こった出来事がある

人がただそいう言う言葉を発したということがある


という、「ある」だけが残ります。



経験があるだけで、そこに行為者がいたり、誰かがそれをやっているというわけではないのです。



ほら、他人に起きたことって、案外どうでもいいでしょ???特にどうでもいい知らない人。(急に口調が変わった!)

親戚とか家族とか友人とか身近な人に何か起きたら、なぜかとってもザワザワ。

それは「私の家族」とか「私の身近な人」って

「私の」が強くなるから、起こった出来事がとても重要で深刻なものになってくる。

けど、ニュースで遠い異国の誰かが殺されたとか、

学校で知らない子がこけて怪我をしたとかってなると、

「私」が絡まないから「へ~~っ」で終わる。



で、「私」がいる時は、この「私」という感覚をとてつもなく強く持っているから、

起こる出来事全てが、自分にとってとても意味があるし、

無視できないような重大なことが起こってるように感じちゃう。


けど、そんな「私」自体、もともといなかったんだ!ということが気付きとして起こってくると、

起こることだけが起きているということが見えてくる。

と同時に、抱え込んで悩む中心がいないので

何かと楽ちんに感じられます。






このブログも、kaitekiという人物が書いていると誰もが思うと思いますが、

ここにkaitekiというものは実在しないのです。



kaitekiと思われる人。

お片づけの事をブログに書いてる人。(もうあんまり書いてないけど~)

36歳で汚部屋を脱出した人。

なんだか最近こんなわけのわからん話を良く書くようになった人。

などなどkaitekiに関して、みなさんそれぞれ色んな思いがあると思いますが、

それらはいっさいがっさい概念であり、思考です。



その概念を一つずつ取っ払って、最終的に全てとっぱらうと、ここに行為者はいなくなります。



ただ「書く」と

ただ「見る」が起こってるだけで、

kaitekiが書いてるわけでも、

読者の誰か個人がこれを読んでるわけではないのです。




ほ~~~~~んっと全て何も起こってなくて、

自分に対して起こってる出来事というのは何もなくて、

自分が誰かに何かをしたことなんて何もなくて、

いたと思ってたのは、

そうしたと思ってる自分であったり、

人に何かをやらかしてしまったと思ってる自分だっただけで、


ぜ~~んぶ頭の中だけで作りだされていた単なるお話だけだったんだ!ということが明らかになります。







ここに書いてある文章は、だからどうするということは一切ありません。
ふ~~んと思ってすぐに閉じて、忘れてくださいね。

でないと、また思考がわかろうとわかろうと一生懸命になって、モヤモヤしちゃうことが起こるかもしれないので。笑
逆に読むだけで何かに気づく人もいるかもしれません。

ただ、読んで、忘れているだけで、ふと何かから気付きがくることがあるので、
いつもながら、ゆっくりのんびりとお過ごしください♡







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やーやーやー。 先日コメントをくれた人のコメントをお借りして記事いきま~す。 コメント なんかさぁ、気のせいかな~?って思ったりもするけど、力抜いて、ちょっと投げやりなくらいに『もういいやー』ってなったら上手く行く気がするよね~ それがなかなか難しいん ...

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やーやーやー。


先日コメントをくれた人のコメントをお借りして記事いきま~す。


コメント

なんかさぁ、気のせいかな~?って思ったりもするけど、力抜いて、ちょっと投げやりなくらいに『もういいやー』ってなったら上手く行く気がするよね~
それがなかなか難しいんだけどね。。




気のせいじゃありません!!!!


実際にそうなのです!爆


「もういいや~~~~!」

って気持ちには

どうにでもなれ~~~~!!!!!!


って気持ちが含まれていて、

どうにでもなれ~~~!!!!

って気持ちには


「もう結果がどうなろうと私は知りません!」



結果がどうであれ全部受け止めます!!!!


という気持ちが入っています。





結果にこだわらず、全てをもう天に任せる!といった感じでしょうか。

その天が下した結果を私はそのまま受け止めてやるぜ~~~!

もうどうにでもしてくれ~~~~~!!!!


ってな感覚ですかね。



結果をどうにかコントロールしようとする時、

とてつもない抵抗が生まれて私たちは苦しく感じるわけなんだけど、


そのコントロールを手放すとき、

自分では考えもつかないとこから(想像を超えるとこから)の力が働き始めます。



コントロールしようとしてるときは、なかなかうまく行かないように感じる上に、

結果どうにかコントロールして得た結果も、まあ、だいたい想像の範囲内の結果だったり、

ま、どうにかなったから安心したわ。。。くらいの結果だったりします。




そう。すべて、過去の自分の記憶のデータを元に、未来を想像、予期するために、

自分のデータにない新しい結果をもたらすようなことは、自分の力では想像(創造)できないのです。



つい先日、友人とも話ししたのですが、


なんでもかんでもすぐに決めてしまう!

決めて、予定通りに進み、予定通りに終わることが安心。

という人もいるかと思いますが、

決めてしまうと、

そこに、新しい「何か」が入ってくる余地がなくなります。(自分で入れさせないようにコントロールしてるわけでもありますが)

もちろん、その新しい何かというのはがっかりすることかもしれない。

けど、もしかしたら想像以上のすばらしいことかもしれない。

がっかりすることが嫌で、そうならないように先に全部自分でシュミレーションしてしまうんですね。

でも、もし何も決めずに、空白を作っておくことで、

その結果は限定されたものから無限大に変わるわけです。


で、またここでもやっぱり

どっちの結果をも受け取る覚悟が必要になるわけです。



その覚悟怖いですよね~~~。

でも、

えい!!!!

どうにでもなれ~~~!!!!

って自分のコントロールを手放したとき、

見えない力が働くようになります。



見えない力っていうと、特に現実主義の場合は受け入れがたいかもしれませんが、

世の中で、

スゴイことを成し遂げた人、

上手く行っている人、

たいして努力もしてなさそうだけど順調な人

っていうのは、

この見えない力にものすごく助けられているのです。

それは、

その人たちには、

結果を恐れずに進むという覚悟があるからだと思うんです。

在る程度のことは、努力したり、対処したり、万全をつくしてみる。

けど、それ以上、自分ではどうこうできることじゃないと分かった時点で、

後は、

「もう任せた。結果だけ自分で受け止める!」

といった感じでしょうか。


これは、大きな結果の時だけに限らず、

日常生活全てで、私たちは、この見えない力にゆだねて、生きてくことができます。




流れに乗るとか、

宇宙におまかせ

とか、

思考活動を手放す

とか、

いろんな言葉で言われてますが、

スピリチュアル的に言ったら、宇宙に任せるですが、

現実的に言ったら、覚悟を決めると同じような気がします。



そして、一つ一つを手放して行き、

もはや自分でコントロールしている感覚が薄れて行く時、


「私は生かされている」という感覚に少しずつ変化して、

さらに現実に対しての抵抗が弱まってくる気がします。



結果は出た時にちゃんと受け止める。

どんな結果であれ、

その時には、それしか起こってないわけだから、

それの起きてることに真摯に向き合えばいい。

それが最善で、一番いい形で起こってるわけだから、

それに抵抗する必要は何もない。


そこに、過去や、期待や、概念を持ち込むから、

これ以外の違う結果があったはず!とまたブツブツとマインドが言い始める。


起こることはこれ以外にない!!!!


とんだ覚悟が必要やな。


ま、覚悟っていうと、ほんとに構えちゃうけど、

結局は全て全体にお任せってこと。



わからん~~~~!!!!

どんだけ考えてもわからん~~~~!!!



そら、分かりませんわ。

知ってることの範囲でしか人間は考えられんのんだから。

でも、自分が欲しい答えっていうのは、

その過去の経験と記憶の中には絶対にない!

だから、そこから、答えをみいだそうとするのを諦めて、

わからんまま天に任せておくと、

ひょいって、新しい答えを持ってきてくれるんだよね。



どうにでもして~~~~~!!!!!


お任せっす!


で、ちょっとやってみてください。


肩に力入ってる時は、起こってることをどうにかしようとコントロールしようとしてるとき。

それに気付くだけでも、肩の力が緩みます!








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やーやーやー。 今日は苦しみについて。 にほんブログ村 苦しみっていうのは 今あること、今起こっていることへの抵抗です。 今起きてることに対して、 「あ~もっとこうだったらいいのに」 「もっとこうしてくれたらいいのに」 「他の方法があるんじゃな ...

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やーやーやー。




今日は苦しみについて。



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苦しみっていうのは


今あること、今起こっていることへの抵抗です。


今起きてることに対して、

「あ~もっとこうだったらいいのに」

「もっとこうしてくれたらいいのに」

「他の方法があるんじゃないだろうか」

「あ~!あの時にもっとこうしとけばよかった」

「私が悪いからだろうか」

と、

今じゃないどこかに答えを求めることです。



よくよく考えてみると、

今目の前で起きてる事以外はすべて頭の中でしか起きていない、想像の出来事です。


その想像の出来事を更に膨らませて、人はどんどん苦しんで行きます。


今あることに大きく抵抗すればするほど、苦しみも大きくなります。




人は、過去、現在、未来、という頭の中の時間軸(想像の時間、概念)を使って、

また過去の経験からのデータを用いて、原因と結果(概念)を考え、

そういった、「実際には目の前で起こっていない出来事」=幻想の世界で生きています。


自分の苦しみも喜びも全部頭の中でしか作られていなかった。


起きている出来事というのは、つねに中立であり、

誰をも批判もしなければ、誰をも罰したり裁くこともない。

どちらに味方してるわけでもなく、

どちらかを有利にたたせているわけでもない。

ただそう在るだけ。



無条件でそこにそうあるだけです。






それを私たちは、概念を使って、


ただそう在るものに対して、あらゆる解釈、判断、概念をつけて、それを意味づけていくのです。

そして、その意味づけられた自分の世界で生きて行く。


だから、その意味づけが自分にとって不都合であればあるほど苦しいわけです。



ほんとは、何もない。

何か特別なことが起こってるわけでもないし、

何か特別じゃないことが起こってるわけでもない。


ただ全ては私たちが考えたりする前に全て起こっていて、

私たちがそれを解釈して、意味をつけているだけ。


無条件というのは、文字通り

条件無しに、

判断だったり

良し悪しだったり

全ての解釈、

何の意味も

ラベルも貼られてないありのままの様子です。



そのラベルを貼ったのは私たち人間です。

自分が何かを意味づけて、

解釈したとき、

その解釈貼ったのはどこから来たのかな?って自分に聞いて見るだけで、


実はどこからでもない、

単にどこからか受け入れて自分が勝手に採用してしまったもの…ということに気付きます。


すこしずつ気付いて、


実際、今、目の前には何の問題も無いと気付くとき、人は長い夢から目覚めるのです。


夢から覚めても、

また、習慣のように、すぐに意味づけをして、

また違う場所へいこうとしたりします。

けど、

そのたびにまた気付いて、今に戻ってくるようにする。


そうこうしてるうちに、

今起こっていることと共に生きるようになります。




今じゃない違うどこか、

今じゃない違う何か、

これじゃない他の方法、

これじゃない状態、

これじゃないとこ、今じゃないとこに絶えず行こうとしている時、

そこには、ずっと不安と不足が付きまといます。


でも、実際には、


これしかないのです。


今起こってることが全て。


それ以外には何もないのです。


過去も未来も、頭の中の幻想であり、

原因と結果も頭の中の幻想なのです。



私が長い間、ずっと不足感を感じ続けていたのは、

この「今」をずっと否定しつづけていたからです。


これじゃない。

違う。

こんなはずはない。

自分の中にある恐れすら、

何かを手に入れたらこの恐れは消えるはず。


今からずっと逃げて、違うどこかに、私が求めているものがあると思い続けてたのです。


けど、気付きました。


そんな私が求めているものなんて、どこにもない。


どこを探しても、永遠に見当たらない。


だって、私が求めているものは、


何でもない「今、ここにあるものだった」から。




最初は、こんなわけない!!!

これのはずなわけない!!!!

こんなつまらんものを追い求めてたわけじゃない!!!!


またまた抵抗もいっぱい出てきました。




けど、結局「これ」や「今」に寄りそっていると、


不思議と、

過去と未来がす~~~~っと消えていくのです。

不足感が無くなって行くのです。


いつも足りない足りないっていう感覚が薄れて行きます。





不安や不足を感じるとき、

それはいつも、「今」からずれていることを教えてくれます。



今を受け入れるということは、

結構覚悟がいるように思えます。


なぜならば、

不都合に感じること

ネガティヴに感じること

嫌だと感じることすら

全て受け入れていく作業だから。




不都合を受け入れるのは嫌だ、怖いという、

過去の記憶のデータが瞬時に上がって来て、

変化を受け入れないように防衛しようとします。



最初はとても恐ろしく感じますが、

その恐れも受け入れて

恐れと共に一緒にいると、

その恐れがやがて、空(くう)に帰っていきます。



怖い事が起こっているとき、

誰かが一緒に居てくれて、

怖いねー、怖いねー、でもきっと大丈夫だよー

って言ってもらえるときっも安心しますよね!

怖いのが和らいでいきますよね。

それを自分にやっていく。


恐れが出たとき、

「やだ!見たくない!」

って、目をそらす時、

見ない事はできても、

隠しただけでその恐れ自体は無くなるわけではないのです。


全部受け入れて、

今と共に生きるようになるとき、



何も必要なかった

恐れを紛らわせるために、自分の外側を強化する必要なんてなにもなかった

わたしはそのままで問題など最初からどこにもなかったんだ、


という気付きがもらえます。







いつも読んでくださる皆様ありがとうございます。なんか、書きながら、「あれ?これなんか前にも書いた事ある気がするー!」ってなったんですが、今、また書いて!!ってことみたいだったので、そのまま書きました!誰かピンとくる人がいるかもです。

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