おうちのぶろぐ 汚部屋脱出女の快適生活

36歳で汚部屋脱出。捨てるお片づけ、お掃除、いつでも人を呼べる心地いいお部屋作り。心と思考のお片づけもやってます。

カテゴリ: kaitekiスピリチュアル

やーやーやー。 幸せって見えないって言うじゃありませんか。 幸せって実はないんです。笑(そんなこと言うたらぶん殴られそうだけど) 幸せってのも、人が作り上げた概念だからです。 その「幸せ」っていう概念に、 わたしたちは勝手に 「こんな風になったら幸せ ...

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やーやーやー。


幸せって見えないって言うじゃありませんか。


幸せって実はないんです。笑(そんなこと言うたらぶん殴られそうだけど)


幸せってのも、人が作り上げた概念だからです。


その「幸せ」っていう概念に、

わたしたちは勝手に

「こんな風になったら幸せにに違いない!」
「こうなったら幸せ~~♡」
「こう感じる時が幸せだわよね!」

っていうイメージを張り付けて、

人それぞれ、自分なりの「幸せ」を作り上げて、

それを求めたり、探したりし始めるんですね。



人はずっとあると思っている「幸せ」を求めているようで、

実際は、実態のないイメージだけをずっと追い続けているんです。



イメージはあくまでイメージで実態がないんです。

つかめるものでもないのです。 

宙に浮かぶ、光の残像をつかんだー!と思ったらほんとはつかんでないわー!!みたいなもんです。笑(←どんな例え?)


だから、実態のないものを探しても、いつまでたっても見つからないのは当然っちゃ~当然なんですね。


そのもともと存在しないものを探して、

「ないない!」

言うて探してるんですね。

そりゃないんはずなんです。もともとナイので。



で、たまに、

すごくうれしい気持ちになったり、

高揚感だったり、

喜びだったり感じたりしたとき、

「あ~幸せ~~!これが幸せっちゅうもんなのか!」

という具合で、

その時の体験に「これが幸せっちゅうもん」っていうラベルをペタっと貼るんですね。

そして、そうじゃないときの体験は「幸せじゃない」とか「つまらんもの」というラベルが勝手についてしまうんです。

自分の体験だけでなく、

テレビや本などの情報によっても、

これは幸せなこと、

これは不幸せなこと

な~んて、じゃんじゃんカテゴリーに頭の中で分けて行ってるんですね。

なんでもないただの一体験に対して、幸せと不幸という分離を自分のイメージの中でせっせとこしらえているわけです。





また、

幸せのイメージを頭の中で作って、

その通りに見えることが起こったとして、

「やった~!めっちゃ幸せ~~!」と思ったとしても、

最初に感じたような気持ちが数日たったら感じられなくなってたりしますよね。

それは、

つかんだど~~~!!!と思ったものは、

単なる幸せと思っていた「イメージ」だったからです。

人はイメージを常にアップデートさせるので、

ずっと、そのアップデートされ続けているイメージに追っついて、掴み続けられるということはないんですね。


高揚感や喜びという変化する感覚が落ち着けば、分離感(足りない感)がまた舞い戻ってきます。


その分離感がこういうんです。

「幸せはこれじゃなかった」

と言って、また新たな幸せのイメージをせっせと作り始めるんです。(バージョンアップ)

実在しない「幸せ」のハードルをどんどんあげていくんですね~~。


そんな無いもの、もっと言えば、単なる「概念」を追っかけっこをしてるから、

いつまでたっても幸せというものを感じられないんです。




ほんとに私たちが求めていることは

どれが幸せでどれが不幸せかということを探し続けるのではなく、

もともと、「幸せ」があると思っていたこと自体が勘違いだった!!!!

もともとそんなものはどこにもなかった!!

ということに気づきです。




すべて勘違いだった!という夢からの目覚めです。


すごく、分かりにくいかと思いますが、

そんな幸せなんてどこにもなかった!と気付きが起きたとき、


ここに求めていたものはすでにあった!ってことが同時に見えてくるんですね。

夢の解除=求めていた平安

みたいなもんです。



どこへも行く必要もないし、

何も探す必要もないし、

こんな自分をどうにかしなきゃ!ということでもなく、

あるがまま、起こっている通りのことに安心してすべてを任せておけることです。




これじゃな~~い!って思いたい自我ちゃんが、

一生懸命イメージを作って、未来に幸せがあるから、そっちに向かってがんばろうぜ~~!って

やってるのもわかるんですがね。

苦しかったり、しんどかったりするときは、

ほんとにそれが幸せなのかってのをちょこっと見てあげるといいかもしれません♡



無いものへの無いもの探しが終わると、

探求のエネルギーが弱まり、

今、ここで、あるものとともにゆるゆる~~~~~っと過ごしていけます♡



どこもここじゃないとこを探す必要がなくなりますからね(*´▽`*)どっしりと起こってることをただ楽しめます。








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やーやーやー。 自我ちゃんの働きって、ある意味ほんとにすごいんですよね! よくまあ巧妙にここまで上手に幻想の世界を作り上げてくれたもんだと感心するほどの精巧さなんです。 詐欺師の中のトップ詐欺師 ...

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やーやーやー。


自我ちゃんの働きって、ある意味ほんとにすごいんですよね!


よくまあ巧妙にここまで上手に幻想の世界を作り上げてくれたもんだと感心するほどの精巧さなんです。


詐欺師の中のトップ詐欺師とでも言いましょうか。



詐欺に引っかかってる時って、

まさか自分を騙そうとしてる相手が、詐欺師だなんて微塵も思わないんですよね。


相手も、さも自分の利益になるように仕掛けてきたり、

また、反対に、恐れを上手く利用してそれに漬け込んでくる。


騙されるほうは、騙されてると知らずに相手の言う通りに動いて行く。

相手の言ったことに従わないと何か恐ろしいことが起こる。


そんな思いがあるがゆえに、
どこまでも詐欺師のいいなりになっていくんです。


そして、

友人などに
「それって詐欺だよーーー!!」

と言われて、

ハッと目がさめる人もいれば、


それでも、

「そんな事はない!!!」と強く詐欺ストーリーの中に居続ける人もいる。


けど、ハッと目が覚めて、

自分が詐欺に巻き込まれてたと言うことが分かってしまえば、


登場している相手、名前、年齢、経歴、騙そうとしてる内容、

全て全て丸っと一式嘘だったと言うことを一発で見抜くことができ、

その悪夢は終わるんですね。



どこまでが本当でどこまでがウソ?とはあまり考えないですよね。


丸っと全部ウソ!!

となるわけです(笑)


相手が詐欺だと知っていて、相手が登場したら、

どんな事も相手にしないですよね。

どんなにおいしいことを言ってこようとも、

「あんたそれ嘘だよね」

どんなに脅してこようとも

「あんたアホなの?」

警察に電話して終わり。

決して、その世界に足を入れることもない。


けど、分かってないと、

恐れとともに、地獄の沙汰まで連れていかれる(*´艸`)



自我や思考もこれと同じで、

入り込んでいるときは、それが嘘だとは思えないんです。


「恐れ」をエサに囁いてくる思考は、

信憑性がありすぎて、

どうやっても嘘に聞こえない。

で、怖いから言うことを聞いとかないと!

と思ってしまうんですが、

根本的に自分が嘘の世界に浸かっていることから目覚めない限り、

手を変え品を変え、詐欺師は永遠とやってくるんですね!



そうやって、騙していかないと詐欺師は生きられないから。


けど、もし、相手が詐欺師だと分かった上で相手していたらどうでしょう??


状況は打って変わって、

めっちゃ面白くなると思いませんか??


相手はこっちが気付いてることに気付いてない。

たまに、オレオレ詐欺電話に出たおばちゃんとかが

瞬時に「あ、詐欺だ!」って気付いて、

そのまま騙されたフリをして

電話したんですよね!みたいなことをテレビでやってるけど、

そんなとき、

詐欺師はもう、単なる

バカ男にしか見えなくなるわけです。





こんな風に、

夢の中のストーリーに入り込んでいるときは、相手は悪でしかなくとも、

いったん外に出てしまえば、

悪でもなんでもない、ただのアホ男の一人芝居!チャンチャン!なんですね。


そして、相手が、本当は弱くてそれがバレないようにだとか、
仕事がなくなって生きていけなくなるだとかの恐れから、
虚勢を張ってただけと言うことが分かると、

つまり、自分と変わらないと言うことがわかると、


「あんたも大変な仕事やっとるなー!
ま、消えていなくなれ!とは言わんけど、あんま悪さしないように、その辺で大人しく遊んどくんやで!」

みたいになれるわけです。



相手の正体が分かると、

怖れをいだく必要なく、いさせてあげることすらできるわけです。




上のストーリーの「詐欺」の部分を「思考」に変えてみてください。


思考は自分のものであるように見えて、全く自分ではない。

正体が分かってしまえば、

怖がる事もなくむしろ見守ったり、好きにさせてあげられる。

無くす必要もなくなる。

無くそうとしたくなるのは、

それに苦しめられていると言う、これまた幻想を見ているから。

無くすのではなく、

それ自体が夢であると言うことに気付いていく。



夢から目覚めたとき、

真のシンプルで優しい現実がすでに私たちのそばにいつも変わることなく横たわってたことに気付く。


認められた自我は、

寄生してる人を騙し騙し生き延びてきてたわけですが、

騙す必要も無くなると、

その性質を失い、

自然に大人しくなっていくのです。



こうやって、全てが「愛」の性質に変わっていくんですね。



最初から何もないんです。


元々の悪があったわけでもない

元々の善があったわけでもない。



こんな詐欺師ちゃんのようにコロコロと性質を変える

無→恐→悪→癒→善→無

というように、

固定されたものなど何もないんです。

私たちの身体もそうです。


元々は何でもないものに、

私たちは全てラベルを付けて、

そのストーリーの上で生きているんですね。









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やーやーやー。 エゴって、一般的にはあまり良くないイメージがあるようです。 な~んて言いながら、わたしも、実際ちょっと前までは エゴというものを超悪者にして、 このエゴを何とかしなきゃ~~~!!!!!!! みたいに躍起になってたときもあるんですね! エ ...

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やーやーやー。


エゴって、一般的にはあまり良くないイメージがあるようです。

な~んて言いながら、

わたしも、実際ちょっと前までは

エゴというものを超悪者にして、

このエゴを何とかしなきゃ~~~!!!!!!!

みたいに躍起になってたときもあるんですね!


エゴがあるから苦しい!面倒!

エゴに惑わされてはダメとか、

エゴが消滅したら、楽になる!

このエゴに巻き込まれないように、自分の中心にいつづけなきゃ!とかね!笑


確かに、エゴ(一般的には自我だったり、思考と表現されてます)に振り回されているように感じてるときは、
すごくエゴが邪魔に感じたりしてました。



けど、エゴそのものはまったくなんでもなかったんです。



ただ、そのエゴをどうにかしようとしたり、
掴んで、ストーリーの中に入り込んでいくと、
「エゴ」がすごく悪者のように感じてしまうんです。


実はエゴは、ただエゴとして、そのままいるだけなんです。



エゴには何の意味もないんです。

思考は単なる思考です。 


自分の思考ではありません。


ザ・思考です。


けど、エゴはあたかも、すべてがとてつもなく自分にとって重要なことであるかのようにふるまってきます。

でもほんとはそこに重要性は何もないんですね。

単なる思考です。

実態もなければ、

形もない、

色もなければ、

見ることもできない、

味もないし、

触ることもできない。

でも、私たちはその実態がないものにすごく重要性を感じてしまって、

思考があれこれ言うことをいちいち信じて、感じ取って、言う通りにしてしまうんですね。


けど、実際に現実に起こってることは、

思考はまったく関係ないんです。

思考とは関係なしに、すべて起こってるんです。

その起こってることについて、

あーでもない、こーでもないって単にエゴがお話してるだけなんですね。


何かをしているときに

エゴはあれこれ話かけてきます。

次はなに?次は?次は??

あれはどうだった??
これは??


常に常に、今起こってないことについて、あれこれ議論してきます。

そうじゃないとエゴは生きれないですからね。


それを単に放っておくと、

体の感覚だけが残ってくるんです。

するとね、

その感覚が「居心地悪い!」って感じたら、

またエゴちゃんは、次の瞬間に何か心地良く感じることを探し始めるんですね。

逆に、

すごく気持ちよかったり、心地よかったりすると、

「この状態でずっといたい!このままでいたい!」

ってまた現状を維持しようとする動きが出てくるんですね。


その動きすべてが、エゴちゃんなんですね。


抵抗ちゃんとも言おうかしら。


だから、いつも何かしらの居心地の悪さを感じたり、落ち着かない感じがしたりするんですね。

常に今起きてること以外のことをエゴは求め続けてるんです。





どんな感覚もどんな思考も起こるがままに起こさせて、

自分は、その感覚でも、思考でもどれでもなく、

それに同化してないとき、

今までになかった体験の扉が開き始めます。

(それは素晴らしいものに違いない!とか、マインドが言ってくると思いますが、無視してくださいね!それに捕まるとまた、それを追っちゃいますから!)



かといって、

「よし!起こるがままにさせとけばいいんだな!」といって、それをしようとすると、

またそれが動きになってしまって、

結局、エゴの落ち着きのなさに振り回されてるーー!!みないになっちゃって、



どーしょーもないですやーーーん!!

ってお手上げ状態になったりするんですが、


実はそのお手上げ状態で、後は放っておくってのが、


全てに抵抗せずに受け入れてくってことになったりしてたりするんですね!


エゴちゃんもそのままスゴスゴとどこかに消えちゃってます。



全ての動きに気づいているだけで、

今起きているそのものの中に溶け込んでいく感覚になってきます。


分離の感覚が消えていくんですね。


分離の感覚というのは、

自分と不快な何か

自分と心地いい何か、 

自分と物、

自分と世界、

自分と相手、

自分と善

自分と悪

自分と幸せ

自分と不幸せ

のように、

自分と何かを隔てているものの境界があるという感覚です。


その分離感が薄れ

一体性を感じられるとき、

人や自分がどんな状況であれ、

そこに自由を感じます。




何かに没頭してるとき、夢中になっているとき(何か趣味のことをしてるとき、スポーツをしてるとき、
映画など見てるとき)などは、

この一体性の中に溶け込んでいることが多いのです。

作業に夢中のときには、

「我」も「時間」もなく、

「苦しい」も「大変だ!」も「これは素晴らしい」「作業と自分」

などといった、そういう隔たりもなく、

ただ一体性として、何かが起こっているんですね。


映画見てるときも、

「今、映画私が見てるでーーー!今、わたしが見てるんやでーーー!!」って、
2時間それを意識し続けながら見てる人なんて1人もいませんよね!笑


CMとか入って初めて、

ハッと自分が見てるという事思い出しますよね!(思い出すというより、気付く)


夢中のときって、

正に今それそのものと一体化してるので、

エゴちゃんの入る余地がないんです。


エゴちゃんが入るときは必ずその時の状況と何かしら別のことを比較するとき

つまり、過去を何かしら見てるときだけなのです。



で、「夢中」が終わるとすぐに自分が戻ってきたように感じて、


「あっという間だった!」
「私がいいものを作れた」
「あれはあかんかった!」
「もっとこうだと良かった!」

なーんてまた分離感が出てきて、エゴの感想大会が始まるんですね。


分離感が薄くなってくると、

その一体性の感覚が


何もしてないとき、
今まではつまらないと思考がレッテルを張っていたようなことにまで


徐々に浸透してくるといった感じです。



で、その分離感はどうやったら薄くなるのかというと、


思い込みを手放したり、
こうでなければいけない自分を手放したり、という作業をしていくわけなんですが、


実は、この一体性を感じるとき、


思い込みや、こうでなければいけない自分は一度も存在したことなかったという真逆の真実も自然に明らかになっていくんですね。











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やーやーやー。 昨日、背中にしょってた大きな大きな荷物を一つ降ろした体験がありました。 途方もない安堵感です。 降ろしてから気付くんです。 あーーー!!私って、思ってた以上に ...

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やーやーやー。


昨日、背中にしょってた大きな大きな荷物を一つ降ろした体験がありました。


途方もない安堵感です。



降ろしてから気付くんです。



あーーー!!私って、思ってた以上に

今のままじゃダメって思ってたんだな!!!って。



私の中にあった

「もっと、もっと」

のエネルギーが消えていくのを感じました。




ここ数日、

何かやるごとに尋ねてたんです。

誰に?

自分に……(*´艸`)




何かやろうとするたびに、

「何でそれをやるの??」

って尋ねた。

焦りを感じるたびに

「何でそんなに焦るの?」

「それをやらないと何が起こるの??」


って尋ねた。




子どもに「ママーーー!!」と言われる度に感じていた


今はできない
自分でやってよ
後にして
待ってよ
私もやりたいことあるのよ


の気持ち。


何がやりたいの?

子どもに呼ばれて、

それを断って、それでも優先しなきゃいけない何かって一体何??





子どもが私を呼ぶのは些細なこと。

水汲んでーーー!!(←自分でやれーー!!)

自分でできることであろうことは、全て自分でやって!と言えること。

私をパシリにするのはおやめ!!


けど、

「ママ来てーー!!」

「何ーーー??」

「ギュッてしてほしいのーー!!」

「一緒にいて欲しいのーー!!」

「大好きだからただ一緒にいたいのー!」

の声に応えれないものって一体なんなの??


呼ばれる度に、

ドキ!イラ!ゾクっ!とさせるものはなんなの???


正体がわからない何かがいるのをわかっていながら、
私はそれに気づかないふりをして、
なんとかやり過ごしていた。



けど、癒しが進むにしたがって、
小さな違和感すらも
だんだんと見逃せなくなってきた。








「呼ばれたらなんでそんなに困るの???」


出て来た答えは……
  






呼ばれたら、相手しなきゃいけない。



何かしなきゃいけない!!


呼ばれたら、何かわからないけど、


とりあえず何かはしなくちゃいけない!!

でした。


「何かしなくちゃいけない!」っていう思いがあるっていうのは知っていたものの、
その正体がなんなのかっていうとこまではあまりわかっていなかった。


理由はわからないけど、
何かわからないことをお願いされることにめっちゃ抵抗があった。


子どもに呼ばれる度に胸がズキンとしてた。



自分でできること→自分でやって!

私を求めてたら→後にして!待ってー!


じゃあ、私は、その子どもに言われた「何かしなきゃいけないこと」を断って、

いったい何をするの??






別に特に何かするわけじゃない。

仕事してるわけじゃないし、

家事してる真っ最中に呼ばれてるわけでもなく、

ボケーーっと子どもとは別の部屋で、

スマホいじったり、本読んだりしてる程度。

それって、何のためにやってんの??

呼ばれたら、

無理にしなくていい洗濯物や片付けを始めて、

「今から掃除するから」って断る私。


わざわざ用事作ってまで断る理由ってなんなの??





自分に尋ねる度に出てくる答えは同じ。


「何か特に決まってるわけじゃない。

けど、今は相手したくないだけ。」


しつこくしつこく出てくる度に尋ねました。


「何も決まってない。

しなきゃいけないことはない。

今のままでいいと思ってる」



それでも違和感が出る度に問いました。


「特に何もない。

しなきゃいけないこともない。

けど、

今のままじゃ何か良くないような気がして、

何かはわからないけど、

何かしなきゃいけないのよ!!

何か早くしなさいよ!!

今のままでいいの??

あなたはずっとそのままでいるの??

いいと思ってるの??


何でもいいから何かしなさいよ!!」





(;゚Д゚;)!!!!!!




子どもに対しての「何かしなきゃいけない」に出てくるザワザワと



自分自身に対しての「何かしなきゃいけない」のザワザワが全く同じだったんです!!!!!!



もう、その驚きといったら!!!

それで、子どもがずっとずっとずっとずーーーーーっと私を呼び続けてたんか!!!!



子どもの「今、ここで一緒に居て!!」

は、

私自身の「今の私と一緒に居て!!」だったんです。


良くしようとしなくていいから、

そのままでいいから。




今より何かを良くする必要はどこにもなくて、


ここ以外にないって


いつもいつも言ってるくせに、




ここじゃないとこばかり見て、

今を先送りにしてたのは私!!!


やってる時にはぜんっぜん気付かないんですよ?!

自分の中では、

ただ単に、

子どもに呼ばれて、今忙しいーーって断って、

スマホいじったり、YouTube聞いたりして、

今を楽しんでる感覚、好きなことを自由にしてる感覚さえあった。




それが全くをもって見当はずれなことをしてたとは!!!



それに気付いたとたん、



私が、思った以上にまだ「今の自分」を否定してる事にも気付き、


それと同時に、


もうそんな必要はないんだよ。


何もしようとしなくて大丈夫だよ。

何か別のものになろうとしなくていいんだよ。
ほんとに今のあなたのままで何も問題はないんだから。




という声が届けられた気がした。



受け取ったと同時に、

私は、

これほどにも重たいリュックを背中に担いでたことに気付き、


私の中に残っていた


どうにかしなきゃいけない自分
今のままでは何か良くない自分


が完全に空中に溶けていった気がしました。



そこからは不思議なことに、

子どものときのように

自分が子どもと大声で歌うことが起こったり、

戦いして遊んだり、

ゲームに没頭したり、

何も「今」以外のことに気を持っていかれることなく、

子どもとの時間が過ごせました。



3時間ほど昼寝をした娘は、

「今晩はなかなか寝ないだろうなー」という私の予測とは逆に、

真っ先にコテッと寝ました。


スマホを見ていても、

本を読んでいても、

子どもに呼ばれて手を止めることに、

ほとんど違和感も感じなくなってる自分がいました。



今の自分に対する「今のままじゃだめなんじゃない?」という疑いがなくなり、


多分、ここ数ヶ月の中では1番大きな癒しだった。


私が小学校高学年頃だったか、中学生くらいのときだったか、


「は~。明日のことも何も心配することなく、ゆっくり眠りたい」
「は~。何も心配なしに、今やってることに没頭したい」


そんなことを願っていた私に、どうやったらその願いが叶うか、その違和感の正体を、今なら教えてあげれる気がした。






おわり。







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やーやーやー。 「辿りつく」 「達成する」   って言うのは、 時間軸という「概念」の上に成り立ってる「概念」です。 「もっと良くなる」 「先には良いことがある」 というの ...

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やーやーやー。




「辿りつく」

「達成する」
 

って言うのは、

時間軸という「概念」の上に成り立ってる「概念」です。


「もっと良くなる」

「先には良いことがある」

というのも同じ。

概念の上に成り立ってる概念。


「今のままではいけない」

「もっと良くならなくてはいけない」

というのは、

私たちの最大の勘違いの一つです。


今のままでいることに感じる恐怖。


今が完璧じゃないと信じてるがために、

ここじゃない、架空のどこかに向かって、

常に自分を駆り立てて必死に努力し続ける。


けどその求めているものが手に入るか入らないかわからないからまた恐怖。

そして、その恐怖を味あわないですむように、

また必死で頑張るというネバーエンディングストーリー。


その恐怖とは単なる幻想だということに気づくこと。

そして、

その恐怖を手放し、

今に落ち着くことが、

最大の癒しであり自由です。



私たちは、どこまでも、

この思考や概念で出来上がってる世界のほうで生きていて、

目に見てると思ってるものも、

実際に見てるのは、

それそのものではなくて、

「概念」を通して見てるんですね。

だから、

目の前にあるものを見てるようで全然見ていない。



見てるのは経験から得た「概念」を見ているんです。


概念、言わば、幻想を見てるので、恐れや苦しみがなくならないのです。


小さな例から始めます♡



例えばコップ。


これを見たときに、

生まれて初めて見るものであれば、

固い

落とすと割れる

飲み物を入れるもの

など、どう知り得ることでしょう。


けど、経験を通してそれを知り、

2回目に同じものを見たら、

もう目の前にあるモノが

何に使われるものかということを

触れたり、聞いたり、体験することなく、

それはコップであり、飲み物を入れるものであるということを、概念を通して見るんですね。



目の前にあるコップを見ているのではなく、

概念付きのコップを見始めるんです。



頭の中だけで経験を始めるのです。




その「概念」とは、

過去の経験で取り入れたもの。

言わば、過去。


非二元で、

「私たちが経験しているものは幻想である」

というのは、

実際に、今、この瞬間の体験を全て概念を通して見てるからなんですね。


概念を通して見る世界=幻想


ベールに覆われた世界を私たちは見ているというのも、

そのベールは思考や概念のトリックのことなんですね。



人もそう。

知ってる人というのは、

全て、データを通してその人をみています。

性別、

年齢、

名前、

雰囲気、

好み、

特徴、

特技、

職業、

その人に関するデータを全て引き出して、

その人そのものを見てるようで、

データを通してその人を見ているのです。


だから、データにないことをその人がすれば、

「その人らしくなかった」とか言い出すわけです。笑


ほんとは、その人らしくないとかも勝手に思考が作り上げたその人のイメージであって、

目の前のひとは、そのまんまのその人なのに( ´͈ ᗨ `͈ )



新しい人に出会うとき、

ワクワクする人もいれば、

あまり気が乗らない人もいるかと思いますが、

それすらも、

新しい人=楽しいことが待っている

新しい人=データにないから怖い


など、自分独自の概念を通して新しく会う人を見るんですね。



何かを見て、


「面倒臭い!」という思考が湧いてくるのもそう。

実際はほんとに面倒臭いかどうかは、

知り得ないこと。

気分も、感情も、全てさっきの自分とは違う毎瞬新しい自分だから、

この体験すらもどうなるか、どう感じるかわからないにもかかわらず、


過去の経験「概念」を通し、

今起ころうとしている体験を見始めるんですね。


そして、目の前にある新しい経験を見逃して、

その概念だけを見て、

「面倒臭い、やらない」と判断を下すわけなんです(*´艸`)


そうやって一つ一つ見ていくと、

私たちはいつだって、

概念を通して人やモノ、経験を見てるのが分かってきます。


それが分かってくると、



見てること、経験してることは

目の前に繰り広げられている新しい世界ではなく


全部、概念だった!!!


ってことがわかるんですね。

それに気付くとき、

新しい可能性の扉が開きます。




思考の中で生きてる自分=幻想、恐れや不安の世界から抜け出し、


今起こっていることそのもの=完璧な調和の中に生きることを始めます。




毎瞬毎瞬が新しい経験であり、

全てが生き生きとした完璧なそのものであるということが、

色メガネを外した途端に見えるようになります。



データにないことをエゴはとても恐れます。

それ故に、

新しい経験を引き止めようと、

あらゆる思考を送り込んできたりするように見えるわけです。


そんな時も、

「おーー!今日もエゴちゃん騒いどるなーー!!」

くらいに

どーんと構えて、

掴もうとせず、

消そうともせず、


本当の自分は、

揺れ動く恐れだったのか、

それとも愛そのものであるのか

どちらかだったかを思い出す時、

心に平安が訪れ、

今ある事の完璧さに愛を感じる事ができます。


すごく分かりやすいので、

ぜひ、不安になったとき、

自分に尋ねてみてください。

何かを考えたりするとき、

不安になればなるほど、

「間違ってるでーーーー!!そっちじゃないでーーー!!」のサイン。

愛は、思い出せば思い出すほど、

不安が嘘だったかのように消えていくほうの選択です。







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